なごみだより

自己理解のすすめ(2009年12月)

なごみ園では、ソーシャルスキルの獲得を目指した活動を行っています。そのソーシャルスキルとは、基本的に対人場面において求められてくるわけですが、自閉症スペクトラムの方は状況を読む力、自分が伝えたいことをまとめる力、相手の意図を理解する力などが自然に発達していきにくい特性を抱えているため、発達の遅れを補うための知識、或いは周囲から誤解を受けない手段を獲得する場面づくりが望まれており、単純に社会性を人並みにつけることだけを目指しているわけではありません。

具体例を紹介すると、あるアスペルガーの成人の方で自己紹介をする時に「もしかすると、失礼なことをしてしまうかもしれませんが、今日一日、よろしくお願いします」という言葉を最後に付け加えている方がいます。また、ある高機能自閉症の方で、これと同様の言葉を添えた名刺を持ち歩いている方もいます。こういった行為こそが、彼らの特性をカバーするスキルでもあるのですが、実は、この一言を付け加えるまでに、長い自己理解の旅が必要とされてきました。自分と人との違いを知り、それを受け入れるといった自己理解のプロセスがあって初めてこの言葉の意味の深さを理解し、使えるようになっているわけです。自分と周囲とのバランスを得るためには、自己理解を深めていく支援がとても大切なことを教えてくれたエピソードの1つでもあります。

彼らと関わる中で受け止め方の違いや矛盾を感じることがあり、私たち自身の中で自己発見や自己理解が深まることも少なくありません。何かに躓き悩んだ時、人は自分に向き合うことで周囲を正しく理解でき、前に進んでいくものではないでしょうか。

なごみ園 園長 五十嵐猛

才能支援について(2009年11月)

なごみ園では、支援計画の中心に「才能支援」をかかげています。その理由には、障害の特性が周囲の理解や支援によって伸ばされ、生かされていくことによって、やがて、それが特別な才能や技術として自分の自信や誇りにつながっていくことが期待されるからです。人類の歴史は、自分の力ではできない、はかない夢を実現させるために、いろいろなアイデアを生み出し、努力を続けた結果、技術を深めることができた「才能」の結集であると私は捉えています。私たちは、「支援」を考える時に、できないことばかりに目を向けてしまいがちですが、彼らの地域生活や社会参加を促していくためにも、「才能」を見出し、伸ばしていく支援は欠かせないものなのではないでしょうか。

人が成長していく過程で最も大切なものは、本人が目的意識を持つことと、それを理解してくれる周囲の支えであるのですが、複雑な社会に流され、少しずつ、その大切なものを見失いやすくなっているように思われることがあります。気をつけていないと、個別支援計画を作成する際にも、本人の願いよりも、周りの困りにばかりに焦点が当てられてしまい、実用的なものではなくなってしまう可能性さえも秘められているということです。ある、自閉症者との面接の中で、彼自身から、こんな話をしてくれました「自分は不器用で、人から嫌われることが多いけれども、こうと決めて目標に向って一生懸命取り組んでいる時には必ず誰かが助けてくれた、自分を嫌っていたはずの人まで助けてくれることさえあった」。この言葉からも、本人が目的意識を持つためにかける支援がどれだけ大切であって、その姿勢が周囲からの理解や支援も得やすくなっていくものか伝わってきます。時間がかかっても、その大切な部分となる「目標」を本人の中で育むことこそが、「自信」や「才能」、やがて本当の意味での「自立」へとつながっていくものであると私たちは考えています。

なごみ園 園長 五十嵐猛

「できる・できない」から「わかる・わからない」へ(2009年10月)

以前、中学生になる自閉症のこどもがいるお母さんから「家の子は、できていたことが、大きくなるにつれて、だんだんとできなくなってしまうのは何故でしょうか?」という相談を受けることがありました。これは「できる・できない」といった見方でこどもの行動を捉えてしまった時に感じてしまう疑問であるのですが、これを「わかる・わからない」といった見方で捉えてみると、自ずと謎は解けてきます。少し私が自閉症に成り代わったつもりで答えてみましょう。「お母さん、それはぜんぜん不思議なことじゃなくて僕はそれをする意味がないことを感じるからしなくなっただけだよ・・・」。いわゆる彼は、これまで言われるまま続けてきたことに対して自我が高まるにつれて自分の中でその意味を考えるようになり、その意味を見出せなくなったことに対しては自分の生活から排除するようになっていったわけです。つまり、本人が物事の意味を考えながら行動選択をするように成長した表れでもあり、そこで私たちは自分と他者や物事とをつなぎ合わせる糸(情緒や利害関係)を整理して捉えることができるため、一見、周囲から無駄に見えるようなことでも骨を惜しまずに取り組むこともあるのですが、自閉症者は、私たちに比べてその糸を自分で整理して捉えることが苦手なため「意味がない」「やらない」と短絡的に答えを出してしまい、無関心になってしまったとも考えられるというわけです。

私たちは常にその場の状況や他人の気持ちなどといったいろいろな柵の中から行動選択を行っているのですが、私たちに比べてその柵に気が付き難かったり、整理して捉えることが苦手だったりする自閉症者には、物事を関連付けて捉えるためのアドバイスや支援がライフステージを通じて欠かせません。例えば本人と「仕事」や「友だち」との間を結ぶ糸を整理して伝えるための知識と工夫をみなさんと深めていくことが、私たちの追求していくべき専門性であると、なごみ園では考えています。

「個別」と「つながり」②(2009年9月)

「つながり」を築く秘訣とは、双方が折り合いをつけながらコミュニケーションを図ることを心がけることだと思います。いわゆる、どちらかが一方的に働きかけていくのではなく、相互的なやりとりを続けていくことが大切であるように思われるのです。実は、日常の中での挨拶やお礼などでも、これがマナーとされています。

しかし、「折り合いをつける」作業とは、お互いの領域を理解しないと、納得のいく結論を導き出すことができません。つまり、相手の立場や想いを分析する力量が問われてくるわけです。相互の立場や想いを分析するカとは、いわゆる、「心の理論」を働かせることであり、それをふまえながら関わりを展開させていくことでもあります。個別的な配慮や、関係機関との連携というものは、この共通認識のもとで、よりスムースに行われるようにもなるのではないでしょうか? 自分自身の成長を目指していくためにも、「心の理論」を磨き、「個別」的な配慮を深めつつ、周囲との「つながり」を広げていきたいと考えています。

なごみ園 園長 五十嵐猛

「個別」と「つながり」①(2009年8月)

今や施設や学校だけでなく、社会生活の中でも発達障がい者との関わりを持つ場面が増えてきており、正しい理解がないと、お互いに誤解しあって、暮らしにくくなってしまいます。彼らと関わる際には、その特性を配慮した支援はもちろんですが、それ以上に、個別の心情を理解する力量も関われてきます。この心情をベースにした特別な配慮がないことには、どんな立派な支援プログラムを打ち立てても、効果は生み出すことはできません。つまり、彼らのおかげで個別の視点が多角的に問われるようになっているわけです。そして、もう一点、大切なことが求められるようにもなりました。それは、「つながり」です。彼らは、自分のことを上手に伝えることができにくい特性を有しているため、周りがつながりを持たないと適切な配慮を行うことができません。そこで、盛んに関係機関の連携が求められるようになったわけです。みんなが個別の視点を持ち、つながりを築いていく。これは、社会全体にとっても幸福につながるシステムでもあるはずです。しかし、なかなか頭で理解したつもりでいても、現実の場面では思うようにはいかないことばかりあります。そんな想いを重ねて来た中で、実は、この「個別」の視点を守りつつ、「つながり」を築きあげていくためには、ある秘訣があることに気がついたのです。それは・・・

(次号につづく)

なごみ園 園長 五十嵐猛

『なごみ職員の専門性』②(2009年7月)

(前号より引続き・・・)しかし、これは子どもの発達段階などに応じて、もちろん対応を変えなければならないことも多々あります。例えば、ワザと人を不愉快にさせるつもりであるのならば、その職員との関係性を見直す必要があるかもしれないし、他の集団に入るための準備段階として、正しい行為を教えなければならない場合もあります。そんな中、続いてこんな例もありました。メンバーが変わる曜日に、前回の足で握手をする挨拶を覚えていて、足を差し出した広汎性の男の子がいました。次にも4歳の脳性麻痺の子、3歳の子・・・と続いていって、最後に3歳の時に広汎性発達障がいとの診断を受けて通い始めたMちゃんの番がやってきました。この時、4歳になって周囲との関わりに広がりをみせてきていたMちゃんの個別支援目標は「自分がお姉さんの立場になりつつある自覚を持つ」ということでした。さて、そこで彼女はどのような反応を見せたかというと「私はやらないわよ」と言って、先生に足ではなく手を差し出したのです。さあ、どうでしょう。私たちはその時点で、彼女の中に「自分の立場はお姉さんであるから、小さい子がしているような冗談は真似ないよ」といったプライドが育ってきていることを感じ取ることができたわけです。そこでも、やはりスタッフはみんなで大喜びをしました。

子どもの成長によって、これだけ私たちの受け止め方も変わるし、それに合わせて対応を変えていく必要があるわけですよね。そして実は、それが子どもたちを関る醍醐味であったりもするものです。私たちは個々の「マインドストーリー」をいろいろな角度から読みとっていけるようなプロ集団として、いつまでも専門性を磨き続けていきたいと思っています。

なごみ園 園長 五十嵐猛

『なごみ職員の専門性』①(2009年6月)

なごみ園ではおあつまりの時に、先生と握手をしながら挨拶をする場面を作っています。これはその時のエピソードなのですが、ある日握手の時に年長の女の子がワザとふざけて足で挨拶をしようとしました。なごみ園の職員はこどもの反応に寄り添うやさしい人ばかりですから、その行為を楽しみながら、足で握手を交わしました。その様子を見た次の子も、そして次の子も足を出して、最後に、3歳になってようやく人への関心に目覚め、集団にも自主的な行動が見られるようになり始めたKくんが、その流れに応えて自分の足を同じように差し出してきました。彼はその足を出して楽しむニュアンスはわからないけど、友達がやっていることをまねしてみたわけです。この行為を通して、彼が本当になごみ園という集団の一員である意識があることを確認できたような思いで、職員一同、涙があふれるくらい喜びあいました。

ここで、私がいつも心配になることは『もし、彼が前のこどもの真似をして足を出してきた時に保育士が「お行儀が悪い、いけません」とその行為を否定してしまったら、彼はどう思ってしまっただろうか?』ということです。もし、そのような指摘を受けてしまったら、彼は混乱して気持ちを閉ざしてしまったかもしれません。なぜなら、足を差し出したのは、彼なりに集団に合わせようとした行為の表われだったのですから・・・。このような、子どもの気持ちの流れ、石井哲夫(日本自閉症協会会長)が云う「マインドストーリー」を読み取った上で、正しい評価や支援に結び付けて欲しいと、私はいつも考えています。

(次号につづく)

なごみ園 園長 五十嵐猛